Rock The Night
「ロールパン好きか?好きなんだろ?」
いえ違います、とボイジャーは答えた。
300人以上のアルバイトが働く原宿の巨大なオフィスでボイジャー達は孫正義とルパート・マードックが仕掛けたメディアビジネスの最前線で戦っていた。
紛れもない闘争だ。20年後に振り返った今でも、あれらは戦いの日々だ。
「は?ロールパン好きって言えよ!」
え、なんで。とボイジャーは答えた。
髪を銀色に染め上げて縦にも横にもデカい図体をしたその男、フュリアスはボイジャーの正面に腰掛け、ボイジャーを睨む。
神宮前エリアはオシャレなカフェが多く吉野家からは遠い。当時のボイジャーは時給の1時間分をランチに充てることなど考えられない経済状況だった。
金がない理由はバンド仲間と酒を飲むからだ。昼休みはいつも休憩スペースの隅っこで、前夜に深夜スーパーで半額で買ったロールパンを持ち込んで食べていた。
偉い人達が衛星放送の会社を2つくっつけてクソださい名前の通信会社が出来上がった。
ガソリンスタンドや家電量販店で、来客にスピードくじを引かせる。くじの中身はほとんど2等だ。1等は入っていない。2等の商品は、衛星放送のチューナーである。
NetflixもYoutubeも生まれていない時代だ。人々は今よりずっと暇だった。チューナーが当たった人はたいそう喜んだ。のちにナントカBBで大問題となる営業手法である。考案したのは天才か悪魔かその両方だ。
「お前バンドやってんだろ?」
ボイジャーは無言で小さくうなずく。フュリアスはなおもボイジャーに迫る。正直に言ってチビりそうになるくらい怖い。
フロアに300人いるアルバイトのうち、150人以上がカラフルな髪の色をしていた。残りの半分はウンコ色の髪をしたギャルである。アムラーという言葉がまだ残っていた。
チューナーを手に入れた人は、衛星放送会社と契約して、スクランブル解除をしなければならない。
そもそも衛星放送を受信するためにはパラボラアンテナを設置する必要がある。一般家庭にはあまりない代物だ。ここは東京だ、ヤンゴンじゃない。
自分でパラボラアンテナを設置することももちろん出来る。しかし屋根に登って設置する途中で死んだ人がいた。ただただ、危険だ。
偉い人達は考えた。クソ番組を集めたクソ番組盛り合わせセットを作り出し、クソ番組盛り合わせセットに申し込むとアンテナ設置の工事費をも無料にした。クソ番組の中で一番人気があったのは釣りの番組だ。あとは推して知って欲しい。
「どこのライブハウス出てんのよ?」
いやーギグァンテックとかスね、とボイジャーは答えた。正直に言うとこの頃は活動停止していてボイジャーのバンドは集まって酒を飲むだけの集団となっていた。
クソ番組セットは4年契約である。4年間クソ番組を見ないといけない。クソ番組以外の番組を見るとPPV(ペイパービュー)で更に課金される。途中解約するには4年間を通算して払う額の半分以上の違約金を支払う。さらにチューナーを箱に入れて返さねばならない。箱がないとチューナーは消費者の買取となる。これは規約にきちんと書いてあり契約上の法的問題はない。ただ、ただ、とても小さい字で書いてある。
「音源、ねーの?」
ないッス、とボイジャーは答えた。本当は音楽活動などやってない金髪野郎、いわゆる丘ロッカーなのだ。あるはずもない。
不動産屋には公認会計士の勉強中と言って部屋を借りた。そのためにボイジャーは公認会計士の本を一冊買った。読んだことはない。
毎日物凄い数のチューナーが貰われていった。毎日物凄い数の工事依頼が産まれた。工事会社のキャパシティをとっくに超える量の依頼でオフィスは溢れ返り、リスケした工事はさらに次の日のリスケを誘発した。
2つの衛星放送会社をくっつけたので静止衛星が2つ、地球の周りを旋回している。同じ方角にはいない。同じ方角にいないから電波の受信角度が違う。2つの衛星を捉えられる最大公約数のレンジの角度にアンテナを設置しないと番組は見られない。だがしかし、アンテナは強風で向きが、ズレる。
「なんだ音源ねえのかよ。しょぼいな」
すみません、とボイジャーは答えた。この時初めて、音源がないことはしょぼいことなのだと認識した。そんなことさえ知らなかった。
すみません、すみません、スミマセン。この頃のボイジャーは呪文のようにスミマセンを唱えていた。
毎日ありとあらゆるクレームが入る。チューナーの箱を捨ててしまった。番組がつまらない。違約金なんて聞いてない。雪でアンテナの金具が折れた。配線のパテが甘く隙間風が入ってきて寒い。工事会社が時間通りに来ない、工事会社が時間通りに来ない、工事会社が時間通りに来ない。
その年のゴールデンウィークに浜崎あゆみがライブをやることになった。地上波では中継せず衛星放送のみの中継ということだった。
世界の半分が浜崎あゆみ、もう半分が安室奈美恵で出来ていた時代だ。もう無茶苦茶だった。申込は殺到し工事の待ち行列が1万件を超えた。
クレームの嵐の中、一番過酷な案件の処理を請け負うのがフュリアスがいた部隊である。見た目は厳ついが仕事も厳つかった。
日々発生するリスケの嵐を制し、ある時はエンドユーザーを説得し、ある時は下請会社に頭を下げて翌日の工事をもう1件増やす。キツい仕事は全てフュリアスに回る。
「まぁいいや。次のライブ決まったら日程教えろよ」
真面目に音源を出す。コンスタントにライブをやる。オーディエンスにハガキを書く。物事に向き合う姿勢しか物事を変えることは出来ない。そんなことさえ知らなかった。
浜崎あゆみの騒乱が終わった頃、池袋の会社に仕事が移りボイジャーとフュリアスの衛星放送チームは急激に縮小した。
300人のアルバイトは10人に減った。ボイジャーもフュリアスもその中に生き残った。そうこうしているうちにボイジャーは新しいバンドで活動を始めたが、ボイジャーのバンドもフュリアスのバンドも結局、売れることはなかった。
いつぞや、誰かの結婚式でボイジャーはフュリアスにバッタリ会った。フュリアスは、どこかの会社の偉い人になっていた。
フュリアスは体裁を誰よりも気にしたし、それでいて中身が伴っていないことにいつも怒っていた。彼はずっとロックだったし、今も終わらないロックパーティを続けている。
「俺たちはロックやってんだよ。金がないとか口が裂けても言うんじゃねえよ。お前はロールパン好きだから毎日ロールパン食ってるんだよ。そうだろ?ロールパン好きって言えよ」
Lounge Act
「小麦粉の味がするの?」
そうじゃない、とボイジャーは答えた。何を食べても小麦粉の味と大差ないんだから小麦粉みたいだと言っただけだよ、と付け加える。
ボイジャーに金がなくて小麦粉があったときの話だ。小麦粉を水に溶いて焼いて食べた。悪くないと思った。以来めんどくさいときはよくその食べ物を食べた。
「ふふふ、変なの」
フルーツは街行く男の目を引く美人で、よく笑う女の子だった。
フルーツは背が高くて手足が長くて、ボイジャーより年下だったけれどいつも大人びた話をしていて、その振る舞いはさながら姉のようだった。
いつどこで出会ったか定かでない。きっと知り合いの誰かのライブだ。最初のきっかけは忘れたけれど、とにかくあの頃、ボイジャーとフルーツはよくセックスをした。
当時ボイジャーが住んでいた下馬のアパートには風呂がなかった。元は昭和女子大の学生専用だったそうだが、前世紀の終わり頃とはいえ、さすがに風呂なしは忌避されたのだろう、ボイジャーが住んだ頃の住人は職業不詳の男性が多かった。
「ねえ。プールに入りたいな」
事が終わると決まって近くの区民プールか銭湯に行き、それからどこかに出かけるのがお決まりだった。フルーツは酒を飲まない。酔いと共につまらなくなるボイジャーの話をレストランや居酒屋やカフェや、時には公園のベンチでニコニコしながら聞いていた。
フルーツは、よく将来のことを話した。いまのお金と未来のお金をどうやって稼ぐか。稼いだお金をどこに投資するか。稼いだお金を何に使うか。キャリアはどうすれば良く見せられるか。
「ジャズシンガーになりたくて、そのために英語の勉強をしているの。ねえボイジャーくん、いつか私の後ろでベースを弾いてね」
HighCなんて張ったこともないし、ランニングベースさえろくに弾けないボイジャーには、無理な注文だった。ジャス、と呟くボイジャーを見ていつもみたいにフルーツはクスクスと笑った。フルーツの笑顔を見たのはあれが最後だったかもしれない。
夜が更けるとボイジャーの携帯には決まってバンド仲間から酒の呼び出しの電話がかかる。一緒に行くか?と聞かれて、フルーツはいつも頑なに断った。
一番近いターミナル駅までボイジャーのバイクでフルーツを送り、そこでお別れするのがその頃の常だった。次の約束などない。ボイジャーはフルーツがどの辺りに住んでいるのかさえ知らなかった。
一度だけ、夜中にフルーツから電話がかかってきたことがある。いつもはショートメッセージだったから珍しいなと思ったのをボイジャーはよく覚えている。
詳しくは覚えていない。病気なのか怪我をしたのか、とにかく助けて欲しい、家に来て、というような内容だった。ボイジャーはと言えば、いつものごとくバンド仲間との飲み会の最中であり、終わったら電話すると言って電話を切った。フルーツの声にあまり切迫感がなかったからというのもある。約束は綺麗さっぱり忘れて、いつものごとく酔い潰れ、そのまま友人宅で眠ってしまった。
以来、フルーツから連絡がくることはなかった。元々ボイジャーから連絡することはなかったし、少し気まずくてそのままになってしまった。
いつまでも耳に残るフルーツの言葉がある。将来の夢を聞かれて、答えに窮した時だ。その場を取り繕ってジャズは無理だけどバンドで食べていきたい、みたいな事を言ったのだと思う。
それより前もそれより後も、ボイジャーは音楽に真剣に向き合うことをしなかったし、フルーツにはとっくに見透かされていたんだろう。
「ねえボイジャーくん。人間の手はふたつしかないんだよ。大事なものは一度握ったら絶対離さないでね」
A Sky Full Of Stars
「彼の奥さんには内緒ね」
サイゴンの裏路地で、数年振りにストリングスに会った。春にわざわざ日本まで飛んで彼を訪ねたのだという。
花の命は短い。出会った頃は小娘だったストリングスは貫禄のあるベテランになっていた。
オフショア開発、という言葉がある。システム開発業務を海外の企業に委託することを指す。その目的の多くは、発注国と受注国の経済格差から生じるコストメリットである。
そもそもオフショアは金融業界において、所得の海外移転や税制の差により受けることができる益税・節税効果などを目的とした海外事業全般を指す言葉であった。
70年代に欧米で始まったオフショア開発の潮流は80年代の日本に押し寄せた。日本企業のオフショア開発は瞬く間に中国で広がり、人件費の高騰と共にインドそして東南アジアに徐々に移行することになる。
時は移ろい2010年代前半のサイゴン。あの頃ボイジャー達は本当によく酒を飲んだ。ボイジャーは彼のことを親しみを込めてリトルボーイと呼んだ。
日本人街のヘム(路地を意味するベトナム語)は今よりずっと静かで、ベトナム人が経営する不味い和食屋と日本人が経営する不味い和食屋が鎬を削っていた。ガールズバーやマッサージが隆盛を極めるのはずっとずっと後のことだ。
ボイジャーとリトルボーイが根城にしていたのは後の流行に先鞭をつけることになる小さなガールズバーだった。チャージも時間制限もなく、地方のスナックを学生が経営しているような緩さが心地よかった。通い詰めたリトルボーイは英語が話せるようになった。
ベトナムをよく知る知人に問い合わせると、めんどくさそうなリプライが返る。2010年代の前半、渋谷のIT界隈にいたボイジャー達の間でもオフショア開発は大いに流行した。
技術者派遣や受託型と並んで、当時注目されたのがラボ型開発である。固定の開発者メンバーのアサインとオフィスなどの環境をワンストップで提供するこの方式は、発注側にとってはスタートまでのリードタイムが短く予算化しやすい。受注側にとってはコスト見積がしやすく、(失礼ながら)技術を分かっていない営業担当者でも売れるというメリットがあった。
ガールズバーにはお茶を引く学生があふれていた。田舎から出てきた学生が働くには好都合なアルバイトだったし、みんなピュアだった。よくもあんな安い給料で働いていたものだ。
店の常連は次々とガールズバーの女の子と恋に落ち、その半分は結婚を選んだ。そのままサイゴンに住んでいるのもいるし、妻となった恋人を連れて日本に帰ったひともいる。
リトルボーイとストリングスが深い仲になったのは、そんな時代だ。ただし、問題がひとつ。リトルボーイには日本に家庭があった。
「今度日本行く時に書類を一通持ってきてもらえませんか?」
リトルボーイやボイジャーの発注先企業は瞬く間に勢力を伸ばし、同じフロアに小規模なスタートアップの日本人担当者がたくさんいる状況が生まれた。
彼らはオフィスをシェアしているだけで違うビジネスをしているので、お互いのビジネスのことは何も知らなかった。
反面、インフラ、物資、情報は圧倒的に不足しており、互助会のような形でよくやりとりをした。だからすぐに仲良くなり、先述の通りボイジャーとリトルボーイは飲み歩くようになる。
時は流れボイジャーはラボ型開発から撤退し、リトルボーイはサイゴンには常駐せずにたまに出張してくるスタイルとなった。
とあるスタートアップに勤めていたリトルボーイはその後も日本にいながら遠隔でサイゴンのオフショア開発チームを数年間指揮していた。
ある年のある時、それは突然訪れた。
リトルボーイの訃報。テト(旧正月)の少し前、サイゴンで彼と酒席を重ねたのがボイジャーの見たリトルボーイの最後の姿となってしまった。
「彼の奥さんには内緒ね」
ベトナム南部女子特有の、いたずらっ子みたいな表情に向かって、言える訳ないだろ、とボイジャーは肩をすくめる。
ストリングスに写真を見せてもらった。日本では墓場で写真を撮るもんじゃないんだ、そう言ってボイジャーが嗜めたが、もしかしたら最近の若い子は違うのかもしれない。
リトルボーイがサイゴンに戻ってくるのを待っていたストリングスは、訃報を聞いて、発狂した。葬儀に押しかけると言い張る彼女を、周りの女の子たちが必死で諫めたと聞く。
念願が叶って余程嬉しかったのだろうか。場末のバーのカウンターの端でストリングスは泣きながら笑った。泣き笑いの彼女はリトルボーイやボイジャーや、仲間たちとの昔話をした。ボイジャーは黙ってそれを聞いていた。
「生きてたんですね」
最近SNSを更新していなかった知人に、ロックスターの葬儀で、友人の雑誌屋が言った。
SNSを更新しないと僕らは死ぬのだろうか。そうではないし、そうでもある。
人は肉体が滅んだ時に死ぬ訳ではない。すべての人がリトルボーイを忘れた瞬間に、彼は死ぬのだ。
彼はまだ生きている。奥さんにとってのリトルボーイはいつまでもベトナムに出張しているし、ストリングスにとってのリトルボーイは長い長い一時帰国の途上なのだ。
ストリングスの物語を、ボイジャーは雑誌屋に打ち明けた。雑誌屋の言葉は、正鵠を得ている。
道ならぬ恋はどんな形であれ、いずれ終わりを迎える。終わりが訪れず、道ならぬ恋を続けるストリングスの魂は、今夜もサイゴンの裏路地をふわふわと、漂っている。
「どんなに愛してたってね、最期のお別れには出られないの。それが妾と奥さんの違いなのよ」
Me and Mrs. Jones
「もうあの国には行きとうない」
ロダンからその言葉を聞いたのは、ボイジャーがまだ学生の頃だった。彼が大陸から戻ってきて、仕事をせず分家で猫を撫でてばかりいた頃だ。
ロダンはあの国が嫌いになったのだ。ボイジャーはそう思った。ロダンは父方の親戚で、無口で、無趣味だった。
無趣味というには語弊がある。パチンコ、競輪、競艇、とにかくボイジャーとは相容れないものが趣味だった。それでもボイジャーが小さい頃は良く将棋をして遊んでもらった。
「ほれ、持っていけ。今日は勝ったでな」
三重県には大晦日から元旦にかけて夜通しでパチンコを打つという奇習がある。
元旦の夜に分家に行くとロダンは必ずチョコレートかクラッカーか何かのお菓子をくれた。パチンコというのは勝っても負けても景品を持って帰るものなのだ、というのを知るのはそれよりずっと後、ボイジャーが藤棚商店街のパチンコ店でアルバイトを始めた時だ。
とにかく、大人は正月三ヶ日のほとんどをパチンコ店で過ごす。少なくともボイジャーの周りはみんなそうだ。
ボイジャーが幼い頃から、ロダンはずっと工場で働いていた。ロダンはずっと独身だった。工場勤めは男性ばかりで周りに女性がいない、とは別の親戚の弁だ。
ロダンに学歴があったのかなかったのか、何の工場だったのか、細かいことは分からない。とにかく3交代の工場勤務で、晩飯時に分家を訪ねると夜勤で不在のことも多かった。
「工場に女の子なんておるかいやさ。男しかおらへん。気楽やでええ」
47ある都道府県の中で何故、三重県だけがパチンコ店の終夜営業を許されているのか。伊勢神宮があるからだ。
神宮。通称、伊勢神宮。125社ある伊勢神宮の頂点、内宮(※ないくうと読む)の祭神は天照大神である。年に一度、新年に天照大神との謁見を目指すのは今上天皇や内閣総理大臣だけではない。我々下々の氏子も初詣と言えばお伊勢参りだし、ブラックエンペラーやスペクターや三狂連といった当時の全グレの皆さん、反社の皆さんも歴史的経緯も相まって数多くお宮に訪れる。
ある時、ロダンは指を失った。右手が左手か、どの指だったか、まるで覚えていないがとにかくその日、ボイジャーの家は大騒ぎになった。
聞けば工場の旋盤の取り扱いでミスをしたのだという。ボイジャーが子どもの頃は周りでよくこういう話を聞いた。いまは自動化が進んで危険な作業を人間がすることは減ったのだろうと思う。
最終的にロダンの指は本人の尻か胸か、どこかの肉を持ってきて見た目は再生された。痛覚があるのかとか、自由に曲がるのかとか、そんなことは知らない。世の中に「労災」というシステムがあることを、ボイジャーはこの一件から学んだ。
怪我をしてからロダンの行動範囲はさらに狭まり、徒歩で行けるパチンコ店によく行くようになった。ボイジャーもたまについて行ってジュースを飲んだりキッズスペースで漫画を読んだりした。
「おい、弥富に行くぞ。お前も行くか?」
名四国道沿いにあるパチンコ店のスロットコーナーは三重県民で溢れ返っていた。県民には県民の特徴がある。お互いがお互いについて県民であることを識別する。僕らはフランス人とスペイン人とイタリア人の区別がつかない。だけど彼ら同士はお互いを認識出来る。同じことだ。世界はそういうふうに出来ている。
当時、三重県ではスロットマシンが禁止されていた。三重県民はスロットを打つために揖斐川と長良川と木曽川を渡り愛知県の弥富に行かなければならなかった。三重県民にとっての「弥富」とは、スロットマシンを指す符号だった。
法規制は需要の矛先を変えるだけで消し去る事はできない。リノのスロットマシンにはカリフォルニアの市民が集い、バベットのスロットマシンにはベトナム人が集まり、弥富のスロットマシンは三重県民で溢れかえる。同じことだ。世界はそういうふうに出来ている。
「お前はお前の親父そっくりや。この辺におっても、ひょろい頭でっかちが働くとこなんてないぞ。大阪行け。」
伊勢神宮を目指すには旧伊勢街道、国道23号線を下らねばならない。天皇陛下から愚連隊までがこぞって通るには、国道は貧弱すぎた。正月三ヶ日の渋滞は起こるべくして起こる。
そして渋滞はさらに大きな問題として地元の住民を悩ませる。人は食事をせねば生命を維持できないし、食事と排泄は常に一対なのだ。
東京はテレビの向こう側の世界だった。遠すぎるし、第一、東京には近鉄電車が走っていない。ボイジャーにとっての都会、良い進学先、そういった言葉が指すのはせいぜい大阪と京都だった。あのロダンの言葉がなかったら、ボイジャーが都会の大学を目指すことはなかった。
大学受験をパスし郷里を離れた頃、ロダンに大陸行きの辞令が出た。いまでは考えられないことだが当時は大陸のほうが貧しくて、日本の第二次産業はこぞってあちらに工場を作ったのだ。経験年数があり独身で出世の見込みのないロダンに、現地駐在の白羽の矢が立った。
「もうな、指なくなってからな、パチンコは長いこと打っとれへん」
コンビニエンスストアもまた、ドラマの中でしか見たことがなかった。ましてや国道23号線の終着点にある大御神の御御住まいは、周辺に何もない事をその存立意義としている。渋滞の車中に蓄積された無数の排泄欲の扱いに苦慮して、三重県警と公安委員会は一計を案じる。
パチンコ店のトイレは広くて数が多くていつも清潔だ。街道沿いにあるパチンコ店に、終夜営業して参拝客たちにトイレを貸すように要請したのだ。以来、正月の初打ちは深夜から、というのが三重県ではあたりまえの常識となる。
大陸にいた頃のロダンの様子は知らない。年に一度帰ってくるか来ないかだったと思うが、その頃のボイジャーはもう分家に行くことも彼に会うことも少なくなっていた。
だから以下の話は又聞きである。だけど大部分は真実だ。
生涯恋人もなく寡趣味だった男が大陸に渡り、内陸の田舎街で恋に落ちた。選りに選って住居にしたアパートの隣家の人妻とである。
最初はただの近所付き合いだった。言葉も分からず、土地勘のないロダンを人妻はあれやこれやと世話をした。そのうちにロダンの食事や洗濯の世話をするようになり、ついにはロダンの部屋に入り浸るようになった。
相手の亭主は激怒した。かの国の法がどのように対処したのか、または法の外側で対処したのか、今となっては知る由もない。とにかくロダンを派遣した会社は弁護士を使って丸く収めた。
当地で職務を継続できなくなったロダンは帰国せざるを得なくなった。会社も辞めてしまった。亭主への慰謝料の類はもちろん自己負担である。それまで郵便局と第三銀行に貯めた金は全て相手方に渡した、と聞いた。
恋人と貯金と職を一度に失い、ロダンは猫を撫でるしかやることが無くなった。猫を撫でるその背中は一気に数十歳も老けたかのように見えた。
親戚の集まりは、しばらくこの話で持ちきりだった。田舎には娯楽がない。どこそこの誰彼がどうしたこうした、同じ話を一日中している。どうかしている。
最初から夫婦でグルだった説もあり、人身売買同然に他所の農村から来た人妻が逃げたがっていた、という話もある。真相は藪の中、御婦人方の想像力は今も昔も豊かだ。
その年の年末を分家で過ごしたボイジャーは、紅白が終わると従姉妹たちと連れだっていつものように近所の神社のどんどん焼きに出かけた。そして初打ちをしにいくロダンが自転車で出かける場面に出くわす。
嬉しいことがあっても辛いことがあっても、新年が来るとパチンコ店は終夜営業を始める。そして嬉しいことがあっても辛いことがあっても、僕らは深夜の開店待ちの行列に並ぶのだ。世界はそういうふうに出来ている。
先日、ロダンを産んだゴッドマザーが亡くなった。享年一百余、大往生である。いつぞや、ゴッドマザーとボイジャーとの最後の謁見に際してロダンの話になった。冒頭のロダンの言葉の意味をずっと履き違えていたことを、ボイジャーは悟る。
ロダンはきっと、まだあの国を愛している。恋しくて仕方ない。だから、もう行きたくないのだ。
「ロダンはなぁ、あの国で何もかも失のうたけど、私な、あれでよかったと思うんやわ。あれがなかったらなぁ、あの子の人生、何の彩りもない詰まらんもんやったやろ」
You Could Be Mine
「モー娘。で誰が一番好き?」
ゴマキがオンラインゲームのチャットで繰り出した質問だ。のちの不倫相手となる人物に。
時は遡り、西暦2000年。年明けすぐの渋谷、線路沿いのリハーサルスタジオにて、全く同じ質問をボイジャーに投げかけた男がいた。職業、ロックスター。
初めての顔合わせ、約束より15分前に着いたスタジオ、待合スペース、刺青だらけの腕、さらけ出したバンドマン、3人。彼らが飲み干した缶ビールが山となっていた。
「帰ろう」
直感を信じて見つからないように踵を返そうとしたが、目敏くボイジャーを見つけたロックスターがボイジャーに放ったのが冒頭のセリフだ。端正な顔立ち、ロン毛に赤いバンダナ、革ジャン、髑髏柄のスパッツ、マーチンのブーツ、クロムハーツのブレスレットが目に飛び込む。ボイジャーはシラフで中澤裕子、と答えた。酔っ払い達は大いに盛り上がった。リハスタの中の出来事は覚えていない。
それからが大変だった。大学を卒業して無職となり図書館で一日を過ごしていたボイジャーの生活は一変した。三宿や三茶、若林で毎晩酒を飲むようになった。酒を飲むために就職もした。申し訳程度にバンドもやった。
バンドがダメになった後も、事あるごとに集まっては飲んだ。「事あるごとに」というのは語弊があって「だいたい毎日」、そう、だいたい毎日酒を飲んでいた。
ロックスターをボイジャーはステージネームで呼んだ。長年ファーストネームだと思っていたそれは、のちに判明した本名によると父親のファミリーネームだった。SNSがなかった時代である。みんなバンド仲間の本名なんて知らずに過ごしていた。いまでも本名を知らない人がたくさんいる。
ロックスターは仕事をしていなかった。自らをトレジャーハンターと名乗った。親の遺産があるとか、昔の職場からくすねた金が大量にあるとか、何かのブローカーとして儲けているとか、噂はいろいろあった。真相は今も知らない。
ロックスターは携帯を持っていなかった。けれど夜は家にいるので固定電話が繋がる。ロックスターに電話が繋がらない日はいつも、ボイジャーと仲間たちはマンションの向かいの雑居ビルにある居酒屋の窓際に陣取り、彼の帰りを待った。部屋の電気がつくと電話をかける、というような具合だ。選択肢はない。飲むか、たくさん飲むかだ。
平日だろうが祝日だろうがとにかく酒を飲んで騒ぎ、最後は明け方の鬼ごっこか花火で終わった。書けないこともいろいろあった。
ロックスターには10か12か下の、とにかく年の離れた彼女がおり、たまに一緒になることがあった。生来の照れ屋のせいなのか、彼の年代のせいなのか、ともかくロックスターは彼女-メイプル-について語ることはついぞなかった。メイプルが彼にとって大切な存在であるというのは傍目からも良くわかった。
ボイジャーとバンドをやっていた頃、ロックスターはこんなことを言っていた。
「早く日本を出て外国に住みたい。でも母親が生きてるうちは心配だからさ」
「もし母親が死んだら、さっさとカリフォルニアに移住するよ」
「ボイジャー、俺ら絶対売れるんだから、そしたら、ロングビーチをオープンカーでぶっ飛ばすんだよ」
ボイジャーは旅行も嫌いだし海外に行ったこともほとんどなかったので、その頃は
「夢でけえ、ロックスター、やっぱカッケェ」
としか思わなかった。まさか自分が先に海外に住むとは思わなかった。
時は流れてロックスターとはすっかり疎遠になってしまい、ボイジャーが海外に住んだこともあって彼の連絡先はわからなくなった。風の噂では実家に帰りメイプルとも別れ職を転々としているとのことだった。
ある日かつての仲間から一本のLINEが入る。
くだんの彼女、メイプルが高熱で救急病院にいたところ、偶然ロックスターの母親がいるのを見かけた、人が倒れて搬送されたらしい、クロムハーツと刺青の話をしている、もしや彼の身に何かあったのでは、と。
結論から言えばメイプルの予感は悪いほうに的中してしまい、通勤途中に倒れたロックスターは病院でそのまま帰らぬ人となってしまった。
昔の伝手を頼ってロックスターの親族に辿り着いた仲間たちは、許可を得て葬儀に参加することとなる。そこには喪主たる彼の兄が驚くほどの人数が集まった。もっとも誰も喪服なんて着ていないので傍目にはバンドのフェスでもやっているように見えたのではないだろうか。大音量のKnockin on heaven's doorが鳴り響く中、思い思いの格好をしたボイジャー達は盛大にロックスターの旅立ちを見送った。
偶然の邂逅がなければ、誰もロックスターの死を知ることなく終わった話だった。寺の境内で泣き止まないメイプルをぼんやり眺めながら、世の中よくできているものだ、とボイジャーは思った。
ロックスターがメイプルと別れた時期も理由も知らないし、今更それを詮索する趣味もない。だけど、ひとつ腑に落ちなかったことがある。長年、時を共にしていたロックスターとメイプルがどうして籍を入れなかったのか。
荼毘に付す間、隣席となった旧知のフォトグラファーとボイジャーは話をした。ロックスターと同い年のフォトグラファー氏、ファインダー越しにひとのことを良く見ている好人物である。
積年の疑問はすとんと腹に落ちた。何のことはない、結局ボイジャーは盃を重ねただけでロックスターのことなど何も理解していなかったのだ。
「あいつはね、他の全てに対して不真面目だったけど、あの娘にだけは真面目だったんだよ」