惑星ナンバーナイン

愛のすべてが、ここにある

Lounge Act

「小麦粉の味がするの?」

 


そうじゃない、とボイジャーは答えた。何を食べても小麦粉の味と大差ないんだから小麦粉みたいだと言っただけだよ、と付け加える。

 


ボイジャーに金がなくて小麦粉があったときの話だ。小麦粉を水に溶いて焼いて食べた。悪くないと思った。以来めんどくさいときはよくその食べ物を食べた。

 


「ふふふ、変なの」

 


フルーツは街行く男の目を引く美人で、よく笑う女の子だった。

 


フルーツは背が高くて手足が長くて、ボイジャーより年下だったけれどいつも大人びた話をしていて、その振る舞いはさながら姉のようだった。

 


いつどこで出会ったか定かでない。きっと知り合いの誰かのライブだ。最初のきっかけは忘れたけれど、とにかくあの頃、ボイジャーとフルーツはよくセックスをした。

 


当時ボイジャーが住んでいた下馬のアパートには風呂がなかった。元は昭和女子大の学生専用だったそうだが、前世紀の終わり頃とはいえ、さすがに風呂なしは忌避されたのだろう、ボイジャーが住んだ頃の住人は職業不詳の男性が多かった。

 


「ねえ。プールに入りたいな」

 


事が終わると決まって近くの区民プールか銭湯に行き、それからどこかに出かけるのがお決まりだった。フルーツは酒を飲まない。酔いと共につまらなくなるボイジャーの話をレストランや居酒屋やカフェや、時には公園のベンチでニコニコしながら聞いていた。

 

 

 

フルーツは、よく将来のことを話した。いまのお金と未来のお金をどうやって稼ぐか。稼いだお金をどこに投資するか。稼いだお金を何に使うか。キャリアはどうすれば良く見せられるか。

 


「ジャズシンガーになりたくて、そのために英語の勉強をしているの。ねえボイジャーくん、いつか私の後ろでベースを弾いてね」

 


HighCなんて張ったこともないし、ランニングベースさえろくに弾けないボイジャーには、無理な注文だった。ジャス、と呟くボイジャーを見ていつもみたいにフルーツはクスクスと笑った。フルーツの笑顔を見たのはあれが最後だったかもしれない。

 


夜が更けるとボイジャーの携帯には決まってバンド仲間から酒の呼び出しの電話がかかる。一緒に行くか?と聞かれて、フルーツはいつも頑なに断った。

 


一番近いターミナル駅までボイジャーのバイクでフルーツを送り、そこでお別れするのがその頃の常だった。次の約束などない。ボイジャーはフルーツがどの辺りに住んでいるのかさえ知らなかった。

 


一度だけ、夜中にフルーツから電話がかかってきたことがある。いつもはショートメッセージだったから珍しいなと思ったのをボイジャーはよく覚えている。

 


詳しくは覚えていない。病気なのか怪我をしたのか、とにかく助けて欲しい、家に来て、というような内容だった。ボイジャーはと言えば、いつものごとくバンド仲間との飲み会の最中であり、終わったら電話すると言って電話を切った。フルーツの声にあまり切迫感がなかったからというのもある。約束は綺麗さっぱり忘れて、いつものごとく酔い潰れ、そのまま友人宅で眠ってしまった。

 


以来、フルーツから連絡がくることはなかった。元々ボイジャーから連絡することはなかったし、少し気まずくてそのままになってしまった。

 


いつまでも耳に残るフルーツの言葉がある。将来の夢を聞かれて、答えに窮した時だ。その場を取り繕ってジャズは無理だけどバンドで食べていきたい、みたいな事を言ったのだと思う。

 


それより前もそれより後も、ボイジャーは音楽に真剣に向き合うことをしなかったし、フルーツにはとっくに見透かされていたんだろう。

 


「ねえボイジャーくん。人間の手はふたつしかないんだよ。大事なものは一度握ったら絶対離さないでね」

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